Поверьте, это не каторжный труд, - программа делает подавляющую часть работы, нужно только немного внимательности. Зато какой кайф, увидеть на выходе из переводчика ...вот такой, например, текст:
The child who was born after a serious hard delivery to weak the body, and to have gotten sick soon as for infant (asthma) asthma immediately after having given birth.
The house of Yoshiki was in the corner of a still residential area near from Tateyama Station. Parents (shop of old standing) were managing a long-established dry store, and Yoshiki lived in the building where the store and home were brand-new.
Mother went out to the shop, partitioned serving, and was run after by the kimono appearance by many guests' correspondence every day. The family business concluded successfully ..big...
Young Yoshiki often spent with maids had been being enclosed by people other than the family, and was a child with a very good reasonableness in place of busy on business parents. It liked solitaire and there was little thing that meant selfishness also in the day nursery that the maid had been giving a ride in the house. Maid [tachimo] Yoshiki was called "[Yocchan]", and it cherished it like near relatives.
However, sickly Yoshiki will always make parents worry. Это почти из начала, в тексте я этот кусочек выделила, выше только про Тотеяму.
第2章「林佳樹」
Глава 2. «Хаяши Йошики»
病弱な少年
Болезненный мальчик.
стр. 58-67
читать дальше1年を通して温暖な気候の続く千葉県(たてやま館山市。ここは三方を海に囲まれた(ぼうそう房総半島の南端にある。
自然の力によって作られた変化に富んだ31・5キロの海岸線は美しく、観光に訪れる人々は跡を絶たない。
1400年代中期から約200年、戦国武将である(さとみ,里見氏が治めていたこの地域は、(たきざわばきん滝沢馬琴作『南総里見八犬伝』の舞台としても知られ、自然豊かな景観には数多くの史跡や伝説が残されている。
常に黒潮の恩恵を受ける館山は古くから避寒地としても注目を集め、その名を(は馳せてきた。
林佳樹は、この地に生まれた。
大変な難産の末に誕生したその子は生まれた直後から体が弱く、間もなく小児(ぜんそく喘息を発病するのだった。
佳樹の家は、館山駅からほど近い閑静な住宅街の一角にあった。両親は(しにせ老舗の呉服店を営んでおり、佳樹は店舗兼自宅の真新しいビルで暮らしていた。
母は店に出て接客を仕切り、日々着物姿で大勢の客の対応に追われた。家業は大きな成功を収めていたのである。
仕事で忙しい両親に代わり、お手伝いさんたちと過ごすことも多かった幼い佳樹は、家族以外の人々に囲まれていたこともあり、とても聞き分けのいい子だった。家の中でも、お手伝いさんに送り迎えをしてもらっていた保育園でも、一人遊びが好きでわがままをいうことはほとんどなかった。お手伝いさんたちも佳樹を「よっちゃん」と呼び、肉親のように可愛がってくれた。
しかし、病弱な佳樹は常に両親を心配させることになるのである。
季節の変わり目には体調を崩し、外に遊びに出たくても冷たい空気を吸うだけで喘息の発作が起こることもあった。佳樹がひとたび発作を起こせば、両親は昼夜を分かたず看病をしなければならなかった。虚弱体質は一向に改善される気配がなく、小児喘息は佳樹の体力を奪っていった。発作が起これば簡単には治まらず、呼吸困難から意識が薄れ、命が危うくなることも少なくなかった。
ぜいぜいと苦しげな息をする小さな佳樹を、父と母は何度となく病院に担ぎ込んだ。真夜中のこともあれば早朝のこともあった。病院のベッドの上で苦しい呼吸のために激しく上下する彼の胸や背中を、両親は寝ずに何時間でも(さす擦ってやった。
色白で目鼻立ちのすっきりとした佳樹の顔は父によく似ていた。体の弱い息子に、父は尋常でない愛情を注いでいた。
佳樹のためだと思えばどんなに高価なおもちゃでもすぐに買い与えてしまうのだ。佳樹の遊び部屋は、毎日父が買ってくる玩具で(あふ溢れた。なかでも幼い佳樹が一番気に入っていたのは虎のぬいぐるみだった。嫁吻なかではもちろん、どこに出かけるときにも小脇に虎の人形を抱えていた。
この頃(はぐく育まれた虎への愛情は大人になっても変わらなかった。虎の絵画や置き物に魅せられ、YOSHIKIとして知られるようになってからも大金を投じて「虎」を収集するようになるのである。
虎の人形を手放さない佳樹は、喘息の発作がなく体調が良い日を見計らい、父と連れ立って外出した。家のなかで静かに過ごすことが多いからこそ、外に出ると大喜びで父の後を追いかけていた。
家から歩いて10分ほどの場所にある海岸には、釣り(ざお竿を下げて釣りに行った。また、休日には車を走らせ遊園地にも出かけた。なかでも、(なめがわ行川アイランドで見られるフラミンゴのショーが佳樹のお気に入りだった。ピンクのフラミンゴが群れになり右に左に鮮やかに動く様子を長い時間、飽きもせず眺めていたのである。
しかし、】度発作が起こればこうした楽しい時間は一瞬にして奪われた。遊びに出ることはおろか、何日も苦しさをこらえて寝ていなければならない。家族は佳樹のために神経を張り詰めて生活していたのである。
相変わらず健康が優れず、家にばかりいた佳樹は、4歳になった頃、唐突に母親に向かってこういった。
「僕、ピアノを弾きたい」
佳樹がどうして突然そんなことをいい出すのか、家族は不思議に思っていた。だが、思い当たる節もあった。家のすぐ近くにあるピアノ教室から響く音色を幼い佳樹はよく聴いていたのだった。
佳樹の願いを(かな叶えるため父はすぐに真新しいアップライトピアノを購入した。そして、近所のピアノ教室に通う手続きを済ませたのだった。
子供の足でも_2分で(たど辿りつけるピアノ教室には大きなコリー犬が飼われており、佳樹は自分より大きな犬に遭遇することが怖くて仕方がなかった。いつも全身を(こわば強張らせて犬の前を通り過ぎた。それだけでくたくたになったが、ピアノのレッスンを受けるために必死で怖さに耐えていた。
その教室でピアノを習う男の子は佳樹を含め2人しかいなかった。佳樹は大勢の女の子たちより数段上達が早かった。習ったことのない曲でもメロディを耳にするとすぐに(けんばん鍵盤を押さえ、同じ音を探し出せた。10分も弾いていれば、すっかり旋律を覚えることができたのだ。
2歳も3歳も年上の子供たちより覚えが早い佳樹を、ピアノの教師は率直に褒めてくれた。
「あなたは本当にピアノが上手なのね。これからももっと上達するわ」
強制されることなく練習に熱中する佳樹は、自分の指が次々に知らなかったメロディを生み
佳樹がピアノに出会ったその年、彼には新しい家族が誕生した。1970年7月、弟の(こうき光樹が生まれたのである。
家に戻ってきた母と弟を迎えた彼は、母の腕に抱かれた赤ん坊があまりに小さいことを知って驚いていた。ベビーベッドの上でただ眠っているだけの弟を飽きずに見つめながら、自分には守るべきものができたのだと(うれ嬉しさがこみ上げていた。
家族が増えたことに心を弾ませていた佳樹は、喘息の苦しさを押してピアノを弾くことに没頭し、鍵盤の前から離れようとはしなかった。新しい曲を練習していれば時間が経つのを忘れられた。
5歳を迎える年、保育園から幼稚園に進んだ佳樹の病状は、さらに悪化していた。同じ幼稚園の園児は元気に園庭で遊んでいたが、その遊びの輪に加わることもあまりなかった。はしかや水ぼうそうにかかればその都度重症に陥り、治るまでには普通の子供の3倍の時間がかかっていた。
みつ病弱な佳樹とは対照的に幼稚園で目立つ存在だったのは、体が大きく活発で利発な男の子、(で出(やまとし山利(みつ三だった。
1965年10月10日生まれの利三は、がっしりとした体型で周囲の子供より年長に見せていた。
佳樹の家から徒歩15分ぐらいの場所に住んでいた利三は、佳樹がピアノ教室で一緒に習っていたもうひとりの男の子とも近所だった。その友達を介して知り合った佳樹と利三は、すぐに言葉を交わし仲良しになったのである。
利三の母もまたピアノの教師だった。利三はピアノを習ってはいなかったが、物心ついた頃からピアノの音を聴いて育っていた。
この先、同じ小学校から中学校、高校へと進むふたりが、やがて固い(きずな絆を結び、人生を懸けた夢に挑むのである。
その決意をお互いが確認するのは、幼稚園に通う日から13年後のことだった。
4歳でピアノのレッスンを始めて以降、新しい曲を覚え、繰り返し弾くことを心から楽しんでいた佳樹は、小学校の入学を迎える前にはある決心を固めていた。
「僕、ピアニストになるんだ」
その思いは直感的なものではあったが、言葉では表せないほど固いものでもあった。指が鍵盤を(たた叩く純粋な(ここち心地よさが、彼にピアニストという将来の夢を描かせたのだった。
72年_4月、館山市立(ほうじよう北条小学校に入学した佳樹は、ピアノの演奏にますます熱が入っていった。
練習の時間を増やしながら、有名なクラシック曲や難しい練習曲にも挑むようになっていた。五線譜に向かい作曲も始めていた彼は、音楽と接していれば、そのひととき喘息の苦しさを忘れることができたのである。
もちろん、体調が良い日には佳樹も快活に遊ぶことができた。夏休みには友達と一緒に海へ釣りや(かこ蟹とりに出かけ、小さな弟を連れて近所の雑木林にカブトムシやクワガタをとりに行くこともあった。
だが、ひとたび発作が起これば、静かに寝ていることを強いられる。店舗ビルの2階にある自宅で父と母と並んで寝ていた佳樹は、発作が起きるとすぐに隣の部屋に敷かれた布団に移された。彼のヒューヒューという呼吸の音がうるさく、母に抱かれて寝ていた弟が泣きだしてしまうからだった。
佳樹はそうして発作を起こすたび、自分は他の子供と違っているのだと思い知らされた。
「僕は、みんなと同じじゃない」
喘息の発作ばかりか、ひ弱で体の動きも鈍かった佳樹は、近所の商店街で何度も交通事故に遭い大怪我を負った。1度目は正面から車に(ひ礫かれ、2度目はオートバイに引っ掛けられた。二度とも体と頭を打って入院し、ショックで喘息を引き起こした。病院で過ごす時間が増え、彼が孤独である時間はさらに長くなっていった。
佳樹を苦しめていたのは喘息と交通事故による怪我だけではない。深刻な食物アレルギーがあった。
小学校2年生のとき、祖母がハワイ旅行の土産にと買ったマカダミアナッツのチョコレートを4、5箱も一度に平らげてしまい急性アレルギーを引き起こすと意識不明に陥ったのだ。チョコレートまみれになって倒れていた息子を母が見つけ、救急車で病院に搬送してなんとか命を取り止めた。以後、チョコレートはもちろん、添加物や刺激物にも注意を払わなければならなかった。
小学校を休みがちな佳樹は(いつたん一旦体調を崩せば、まるで長い時間患っている老人のように一日中横になっていた。たびたび館山駅前にある総合病院へ入院し、両親は交代で佳樹の病室に付き添った。発作を起こすたびにベッドの上から動くことも許されない息子を父と母は一生懸命励ました。絶対安静を言い渡され、太い注射を打たれ、細い腕に点滴の針を刺し、吸入薬でどうにか呼吸を整えている佳樹は力なく父や母の激励に(うなず頷いた。
医師や看護婦が気の毒がるほど繰り返される入院に、彼は小学生らしからぬ厭世的な気分に浸るようになっていた。
「ベッドに縛られたままじゃ、大好きなピアノの練習もできない」
ピアノを弾く楽しさを思い出せば思い出すほど、練習に根を詰めたときに襲ってくる発作の苦しさも忘れることができなくなっていた。
息苦しさが押し寄せれば、佳樹は仰向けに寝ていることすらできなかった。風穴のような音を立てる(のど喉の痛みと胸の苦しさに気が遠くなりながら、横向きになり背を丸めて嵐が去るのをただじっと待つしかない。
「このまま息が止まってしまったほうが、ずっと楽なのに」
そう考えることもしばしばだった。
明らかに気力を失っていく息子に希望を与えたのは、父が病室に持ってくる手土産だった。父は毎日のように数冊の本を持って佳樹の病室へやってきた。その本の内容は様々だったが、佳樹が特に好んで読んだのは子供のために書かれた偉人伝だった。キュリー夫人やエジソン、リンカーン、シューベルト、ベートーヴェンといった歴史上の人物の物語を彼は飽きもせず繰り返し読んだ。なかでも偉大な交響曲を作曲したべートーヴェンの奇跡のような人生には声を上げるほどに感激していた。
「(あきら諦めなければ、いつかきっと願いは叶うんだ」
病気で聴力を失いながら不屈の闘志で作曲を続けたベートーヴェンは、佳樹にとってまさに英雄だった。彼は、毎日学校に通うことも、友人と遊ぶこともままならない自分と、難聴と闘ったドイツの偉大な作曲家とを重ね合わせ、いつしかこう願うようになっていた。
「僕もベートーヴェンのようになりたい」
心に兆した希望の光は、彼に少年らしさを取り戻させた。
佳樹はぎりぎりの出席日数でようやく3年生に進級することができた。成績が格段に良く、勉強の遅れがないことが考慮されたのだ。また、ピアノの演奏も飛びぬけた速度で上達していった。あまり外出できなかった佳樹は、家で本や教科書を読み、ピアノを弾いて過ごすより他なかったのだ。
毎年行われるピアノ発表会でも佳樹は注目の的だった。彼と同じピアノの教室に通い始めた3歳の光樹と連弾を披露したこともあった。大きな拍手を浴びたそのとき、佳樹はステージの上で演奏する興奮と快感を肌で感じ、いつしか自分のためでなく聴いてくれる人のためにピアノを弾きたいと願うようになっていた。
時には、自宅で観客のいない演奏会を開くこともあった。部屋の明かりを消しスタンドライトだけをつけて好きな曲を何時間でも弾き続けるのだ。薄暗い部屋の淡い光のなかでピアノを奏でる自分は、ピアニストにふさわしいと信じて疑わなかった。
レコードを聴くだけでなく、演奏者としての自分を想像しはじめた8歳のとき、彼は生まれてはじめて自分でレコードを買った。
それまでも、父が通信販売でセット購入してくれたクラシックのEP盤で有名な交響曲は聴いていた。毎月届くレコードは佳樹の宝物になっていたが、自分でレコードを選び、自分のこづかいで買う経験はそれまでなかった。
店内を見回しクラシックコーナーに歩み寄った佳樹は、ぎっしりと並べられたLPレコードのジャケットの縁を指で送りながら、1枚ずつタイトルとカバー写真を確認していった。
ようやく選び出した1枚には、A面にべートーヴェンの交響曲第五番ハ短調「運命」、B面にシューベルトの交響曲第八番ロ短調「未完成」が収録されていた。
佳樹は、手に入れたそのレコードを胸に抱えて家に戻ると、父のステレオのターンテーブルに載せ、何度も何度も聴き入った。
目を閉じると荒々しい姿でタクトを振るべートーヴェンやピアノで美しい旋律を奏でるシューベルトの姿が浮かぶ。(と跡(ぎ切れることなく耳に流れ込むメロディは、佳樹に優雅な気分をもたらした。目の前には、美しい風景やそこに暮らす人々の顔が描き出されていく。つかの間の夢を見たような心地よさが佳樹を包んでいった。
感情が(たかぶ昂り、また平穏が訪れる。漂泊する過去の音楽家の魂が、佳樹の頬を(な撫でているようだった。
佳樹は、頼りなく弱々しい自分の体を強く(さわ爽やかな風が吹き抜けたような気がしていた。
自分が生きるために一番大切なものは音楽なのだと悟ったのである。
Сканы